泉岳寺

赤穂浪士が眠る泉岳寺

泉岳寺は曹洞宗の寺院であり、慶長17年、門庵宗関和尚(今川義元の孫にあたる人物)を拝請し、徳川家康公が外桜田に建立しました。
現在の警視庁の近くになります。

それが寛永18年、寛永の大火と呼ばれる大火事によって焼け落ち、現在の高輪に移動させました。
当時の将軍、徳川家光公が高輪泉岳寺の復興がどうにも進んでいないことを見て、毛利、浅野、朽木・丹羽・水谷という御大名に銘じて、高輪に泉岳寺を建立させたのです。
それ以来、浅野家とは深いお付き合いがあります。

この泉岳寺は赤穂義士の墓があるという事でも有名なのですが、実は諸国の僧侶たちが参学する場、叢林としてまた三学寮の一つとしても有名だったのです。
現在も数が少ないものの、大学で仏教を学び、泉岳寺で修行するという若い修行僧が頑張っています。

怖い話も残されている

泉岳寺の境内には、血染めの梅、血染めの石、さらに首洗い井戸があります。
大石主税が切腹したという松平隠岐守三田の屋敷に生えていたという梅の木があります。
また田村右京大夫の屋敷の庭にて、浅野浅野内匠頭が腹を切ったとき、その血が飛び散ったという梅の木、石もあります。
さらに、義士が本懐を成し遂げた後に、吉良上野介の首をこの井戸で洗い、主君のお墓に供えることで仇を果たしたことを報告したといいます。

その井戸は今も泉岳寺に残されており、首洗い井戸と呼ばれているのです。
切腹の血のかかる梅に石、さらには首を洗ったという井戸、泉岳寺は少々恐ろしい場所もあります。

赤穂義士の墓

赤穂義士といえば、主君の仇を果たした赤穂義士として有名な話です。
元禄16年、2月4日に赤穂義士たちは切腹します。
その後、間をおかずにこの地に埋葬されたのです。
しかし、間真六の遺体だけはご遺族が引き取ったという事です。

寺坂吉右衛門は、本懐を成就したのち、瑤泉院などへ討ち入りしたことの報告を行い、江戸にもどり自首したのですが、赦され、83歳、天寿を全うしたのです。
曹渓寺で生きた寺坂は、そこに眠っています。
間真六の供養墓は、ほかの義士の墓と共に建立されたのですが、寺坂の墓については、慶応4年に供養のために建立されたもので、そこに本人は眠っていません。

討ち入りしたいと熱望したものの、周囲の反対にあいとうとう討ち入りできなかったことで、討ち入り前に切腹したという萱野三平の供養墓も昭和4年に建立されて、現在泉岳寺には、赤穂義士46人の墓と討ち入りできなかった仲間の1人の墓があるのです。

深い歴史がある泉岳寺の境内は、見て回るものがたくさんあります。
赤穂義士の話にしても、そのほかの話にしても、なかなか知りえないものがあるので、泉岳寺は参拝する場所としても、また歴史を知る場所としても有意義に過ごせる場所です。