増上寺

開山から600年、歴史深い増上寺

徳川将軍家とゆかりの深い増上寺は、江戸時代に日本有数といわれる大寺院に発展しました。
開山し600年という歴史を誇りますが、江戸時代以降、激動の近世をくぐりぬいてきたお寺です。

明徳4年、浄土宗第八祖酉誉聖聰上人によって増上寺が建てられ、武蔵国豊島郷貝塚の土地を与えられました。
これは現在で言うと千代田区の平河町から麹町の周辺の土地にあたります。
室町時代に開山し、戦国時代まで東国の浄土宗の要の寺として栄えました。

徳川家の菩提寺という役割

安土桃山時代には徳川家康が関東の多くを納めるようになり、その後まもなく増上寺は、徳川家の菩提寺として天正18年に選ばれました。
これは家康公が当時の増上寺住職であった源誉存応上人を深く帰依したためといわれます。

徳川家の厚い保護を受けていた増上寺は、慶長3年になると現在の芝の地に移転します。
この当時、徳川家康の厚い保護を受けて増上寺はますます繁栄します。

徳川家康公は増上寺で葬儀を執り行うようにという旨の遺言を残してお亡くなりになりました。
それ以降、増上寺には二代、六代、七代、九代、十二代、十四代と6人もの将軍の墓所が建立されています。
これらの墓所には正室、側室の墓も設けられ、悲劇の皇女として現代にも知られる静寛院和宮様もおられます。

黒本尊は勝運を招く

恵心僧都源信の作で知られる阿弥陀如来像、この如来像を徳川家康公は深く尊崇していました。
戦いのさなか、陣にも奉持していたといわれ、幾たびもの戦いの勝利を祈願したといわれます。
その後、この如来像は増上寺に奉納されており、勝運、災難を除けるという霊験あらたかな仏様として信仰の主軸となっていきました。

黒本尊と呼ばれるのは、長い年月の中で香の煙によって黒くなったこと、また沢山の人々の悪事や災難をその一身に受け止めてきたからといわれます。
この黒本尊という名は家康公の命名といわれるありがたい仏様です。

苦難の時代を乗り越えた増上寺

江戸時代に寺格百万石とうたわれた増上寺も、明治期に入ると苦難の連続となります。
明治初期、境内地が召し上げとなり、一時期、新政府によって神官を養成するための施設が置かれるという事態となってしまったのです。
明治6年、42年には二度にわたり大火に襲われ貴重なものが沢山失われました。

しかし明治8年になり、浄土宗大本山に列せられ、増上寺は伊藤博文公等の檀徒を迎えられ、復興の兆しをみせます。
大正期に消失した大殿も再建され、少しずつ復興していったのです。

しかし昭和になり、増上寺は空襲にあいます。
増上寺復興を一瞬で無にしたといわれるのが、昭和20年の空襲でした。
戦後、昭和27年になり、仮本堂をようやく設置し、昭和46年には4年という歳月をかけて壮麗、荘厳なる新しい社殿を建立し、現在に至ります。
幾たびもの困難を必死に潜り抜け、復興、焼失などももろともせず仏様の力をお借りして再建された増上寺は現在も地域の方々、また全国の参拝者を迎え日々祈りを重ねています。